- 2014.08.10 -
T&C Classic Audio Equipment Gallery
第一話 大正15年創刊ラジオ雑誌「ラヂオの日本」について
日本で初めてラジオの本放送が開始されたのは大正15年(1926年)8月6日、その年に発刊された書籍に「ラヂオの日本」があります。
この本に関しての情報はほとんどなく、書籍の保存も国会図書館で電子書籍として保存されていたりします。
これはラジオの社会への普及を知る上で初期の貴重な資料で、できれば原本を手に入れたいと思案しておりました。そこにオークションに出品
されているのを知りこつこつと購入を始めたところ、出品は1冊ずつ行われていたことから購入金額が高騰してしまいました。可能な限り落札は
したのですが、予算の関係から限られた冊子数の入手に留まりました。当時を知る貴重なまとまった書籍なのですが、今となっては逸散してし
まったことがとても残念です。
結果として手元に集まったのは第2号から昭和初期までの10冊ほど。それらは古典音響機器ギャラリーで公開する予定です。
本物だけが持つ独特の雰囲気がそこにあり、当時ラジオが社会へ与えた影響をより良く伝えられるのではと思います。
ラジオが技術的に確立したのは1920年にさしかかる頃であったと思いますが、実用の水準になりつつある最先端の放送技術ということもあり、
その内容のほとんどが技術的な説明や紹介が占めています。
ラジオの作り方や電波の伝わり方及びラジオの技術的解説などで、放送開始当時は多くの受信者が真空管を使わない(勿論電池などの電気も
使いませんが)鉱石ラジオが半分を占める時代ですから、実際にこの本を読む人は極めて高度な技術屋か放送関係者に限定されていたのではない
かと推測します。また、電波の届く距離の調査内容に樺太や満州が含まれていることは現在から見て時節あるいは時代の流れを感じる一方、当時
の日本のラジオ技術に関しての研究、実証が非常に早い速度で行われていたことが伺えます。
面白いのは「巻頭の辞」として「都市の美観と受信空中線の整理統一」がありました。つまり、ラジオのアンテナ(空中線)は密集した都会で
は美観の問題を懸念しているのです。当時のラジオ(当時はラジオではなくラヂオでしたが)は受信感度が悪いために10メートルから20メートル
の長い電線を屋外に設置する必要がありました。当時の技術では都会の空は電線だらけになってしまうことを心配したのでしょう
(既に都市圏で二〇数万の人が試験放送を聞いていたようで、軒先が電線だらけだったようです)。
そんな中最新のラジオ技術の紹介、それに協賛する広告を載せた雑誌で、しかもこれから国全体を覆うための放送局がいまかいまかと本放送を
始めようとしていたその時に、技術がもたらす恩恵や利便の一方で景観という公共性に着目し、それを巻頭の辞に書いたのですから、めでたいと
ばかりは言えない、「改善すべきことがある」ということを明確にしたかったのでしょう。
狭い範囲ではあっても、新しい技術がもたらしたその風景はかなり見苦しいことになっていたことが分かります。
*1920年代は黄金の二十年代と言われており、現代の生活に繋がる家電市場が生まれた時代でした。自動車、冷蔵庫、洗濯機なども普及が始まる
のがこの時代でした。
また、大正15年発刊のこの雑誌には既に多くの広告掲載もあり、現在の横河電機株式会社殿の「6エレメント オッシログラフ」が掲載され
ています。企業という視点で見ていくと誕生からまだ20年そこそこの技術を巡り、すでに多くの企業が活発にその技術を巡り活動をしていたこと
が伺われます。そして当時広告掲載した会社の多くは現存していません。横河電機株式会社殿の繁栄と社歴が感じられます。
尚、各社広告文の文字ですが、横文字は右から左へ書かれたもの、逆に左から右へと書かれたものが混在しており多少読むのに戸惑いを感じるこ
とがありますが、これも時代の流れを感じさせます。
次回は鉱石ラジオについてお話しします。
記載させていただいた会社名と内容については横河電機株式会社殿の許可を頂きました。この場を借りてお礼を申し上げます。
2014年 8月10日 中鉢 博